【ART×BIKE】作家インタビュー

安西剛 TSUYOSHI ANZAI

 

 

 

・作品タイトル

Coccyxs Identity Crisis   2017

 

1.作品の内容と意図についてお聞かせください。

 

ヒトの骨格の中で唯一自転車に敵対する骨であろう尾骨を複製し、パッケージ化することで日用品として様々な目的を与えています。

 

尾骨は痕跡器官と言われ、ヒトが猿だった頃の尻尾の名残であり、特に機能的な目的を持たない骨と言われています。ただ、それは進化論からの観点であり、進化論を否定する人々(主に敬虔なキリスト教徒など)は未だその役割が解明されていないだけだ、と主張します。例えば、脾臓などは従来は痕跡器官として役割を認められていませんでしたし、盲腸もよく知られた痕跡器官ではありますが、転用され、草食動物のそれとは違う役割が与えられています。つまりは、尾骨という骨の形のもつ意味はよくわかっていないということです。

 

私は今まで、日用品を多く作品に取り入れてきました。それは、直接的な日用品の形と目的の繋がりを変容させることに興味があったからです。ヒトがデザインした形をその目的から解放することで、人間を中心とする世界の遠近法から逃れようとしたのです。

 

その観点から尾骨を見るてみると非常に興味深いことがわかります。尾骨は人体という非常によくできたシステムの中で、目的がよくわからない、つまり、形と目的との関係が曖昧なのです。これはある意味、私や他の多くの作家が求める究極の抽象彫刻というモノに近いかもしれません。ヒトの意図が介在しない形、目的を持たないオブジェクト。抽象彫刻ですら、それがヒトの創りしものである限りなんらかの意図が介在してしまいます。その点で、尾骨には少なくともヒトの意思は介在していませんし、他の器官のようには説明づけられていません。神の存在を認めるにせよそうでないにせよ、いまいち目的のわからない尾骨の形を決めているのは、ヒトとは別の次元の何かであることは疑いようがありません。私たち人類全ての遺伝子に、その抽象的な形が刻み込まれているのです。

 

自転車が誕生してからまだ200年程度しか経っていませんが、自転車は数多くの進歩を人類にもたらしました。中でも1800年代後半に始まるフェミニズム運動において自転車が象徴的な役割を持っていたように、古い慣習などから解き放つオルタナティブとしての重要性は無視できないでしょう。そのような自転車に長時間乗っているとまず悲鳴をあげるのが、尻尾の名残であると言われる尾骨である、というのはどこか意味ありげです。

 

 

2.自転車という存在は、あなたにとって、いかなる存在ですか?

 

私は健康面の理由から運転免許を取ることができません。なので私が遠くへ移動する際は公共の交通手段を使うか、誰か友人に助けを乞うしかありません。私は最近までテキサスに滞在しておりましたが、基本的には車社会で、そこでの交通手段はバスや市街のほんの一部を通る電車に限られていました。そのため、ある程度の距離なら自転車で移動することがとても多かったです。自分の力で遠くまで行ける、たとえそれが見知らぬ土地であろうと。公共の交通手段のような制限を伴わず遠くまで行ける乗り物は私にとってより多くのトラブルや、そして偶然の機会を与えてくれます。

 

 

3.AIが浸透する社会について、あなたはどのように思いますか?

 

AIについて研究することは、すなわち「人間とは何か?」 という古くからの命題の延長であると思います。AIとは人間の知的営みを模倣しようとすることで、一方、近代以前の芸術は人間の感覚的受容を別のメディウムで模倣しようとすることで、絶えず表象と本質の狭間の存在論的な問いかけをしていると言えるでしょう。そう考えると、文学における登場人物の描写等にリアリズムを求めることなどは、もしかしたらAI研究の祖先とも言えるのかもしれません。

 

「人工」知能がヒトの創りしものである以上、その模倣は人がどのように人間について考えているかの表れであるはずです。そういう意味では、自己学習のプログラムなどはその域を踏み出そう(踏み外そう)とするきっかけになるのかもしれません。

 

芸術と同じように、出来の良い模倣ほど同調と他者性のないまぜになった不思議な感覚を与えてくれるものです。

 

 

 

西田岳史  TAKASHI  NISHIDA

 

 

 

・作品タイトル

Film as Commodities - otherwise, Luxury Goods   2017

 

1.作品の内容と意図についてお聞かせください。

 

連作のうちの1つになりますが、かつての地位もしくは存在を失いつつあるフィルムというオールドメディアに新たな価値を付加、再構築することで商品(あるいは贅沢品)としてなりうるかという命題を提示する作品です。今回はARTxBIKE展ということで、「映画」の誕生 (1895) となった 世界で初めて劇場で公開された(であろう)映画のプログラムの中から、「動いている」自転車の映像をリュミエール兄弟の作品群からピックアップして併せて上映しており、展示されているフィルムの内容は上映された映像から起こしたものになります。

 

「映画」の幕開けとなるこれらの映像の中に、自転車を捉えたものが多くあることは、19世紀末における、自転車への人々の熱いまなざしを発見することでもあります。リュミエール兄弟が最初に公開した歴史的な映画のひとつ「工場の出口」に、何台の自転車が現れるのか? 数えてみてください。

 

昨今のデジタルメディアの台頭により映像自身も01の数字の羅列データとして表示され、もはや手では物理的に触ることの出来ないメディアになりつつあります。

 

「映像を所有する」 ということはどういったことでしょうか? DVDBlu-rayを所持する? HDDに大量のデータを保存する? クラウド上の仮想空間からダウンロードする? 写真の一コマ一コマの連続が映像として知覚されるという映画・映像体験の原点となる事実を物質的・触覚的に連続するフィルムとしてもう一度再確認してもらえたらと思っています。

 

「映像」は現実ではなく、仮象なのです。

 

2.自転車という存在は、あなたにとって、いかなる存在ですか?

 

日常でも移動手段として自転車は毎日乗っており、移動手段の一つですが、もともと身体を動かすのが好きなので自らの力でこいだり&ライトを自家発電したりすることへのこだわりはあります。そういった意味では自分が生み出すエネルギーをもってして移動(電気)といった異なるエネルギーへ変遷しうる欲望を満たしてくれる装置であります。

 

3.AIが浸透する社会について、あなたはどのように思いますか?

 

初めて「AI」というタームを知ったのは30年近く前にゲームの中でしたが(当時は現在でいうAIとは多少異なるとは思いますが)、その後多々映画などで問題提起やネガティヴな文脈で語られることが多くなってきました。自転車や映画がテクノロジーの進歩によってその形態・用途が変遷するように、それを使用する人間(有機生物?)も適応していかなければいずれ淘汰されていく危険を孕んでいます。

 

ただしインターネット然り、現在AI無くして語られないものも増えてきているのも事実です。また究極な話、AIの中に「自我」を認めるか認めないかの議論もありますが、いずれクローン同様「自我」を持ったAIが生まれるのも時間の問題だと考えます。自身のスタンスとしてはそれに抗うというより、むしろ上手く利用する(利用される)方向での柔軟な発想や信念が必要になっていくのではないでしょうか。

 

 

 

クボタタケオ  TAKEO KUBOTA

 

 

 

 ・作品タイトル

〔写真作品〕

 《Duchamp’s Sky  2015,  Japanese fiber banana 2017, toward Sky  2017,   Cycling Lane - 2  2017,  Lily of the Field 2017,  Cycling Lane - 1   2016

  ( Lambda Print 250×320 mm)    

 

 〔絵画作品〕

  《a Bicycle view 2000 (Acrylic Painting on acrylic board  1350×1350 mm)

 

1.作品の内容と意図についてお聞かせください。

 

写真作品は従来の儚さ故の美しさをベースにして、ART×BIKE展のDMに使用した3種の風景で組み合わせました。

 

Duchamp's Sky はこの展覧会の象徴としてのマルセル・デュシャンの《自転車の車輪》の再制作作品を草原と樹々と空のフィールドに置き、そこに生じるシュールな雰囲気を写真で捉えました。《Japanese fiber banana はその花と実に見える命の生と死の狭間に放つ光彩として表現しました。《toward Sky は今回のDMに使用しましたが、これは自転車に乗る高揚感を表しました。幼い頃、誰しもが感じること自転車に乗ると何処へでも行けると思えることです。《Cycling Lane -2 は最近見られる自転車レーンのある風景。《Cycling Lane -1 も同じで、都市の空間に鮮やかに彩られ、進行方向を指示しながらもなんとなくユーモラスな表示が面白い。《Lily of the Field はやはり過去からの私の命題である「存在とは?」であり、この野百合にも植物特有ながら、我々と同じ……「わたし」があるのだろうかという問いかけである。

 

絵画の《a Bicycle view》 はロードレーサーに乗っている時の風景との対峙に生じる数々の緊張感を視覚化し美的空間として作り上げました。自転車とヒトの五感とエネルギーが一体になるエクスタシー!

 

2.自転車という存在は、あなたにとって、いかなる存在ですか?

 

 僕にとって自転車はその種類に関わらず、感覚を解放しつつ逆に感覚を研ぎすます道具です。自動車を捨て「自転車で飛び出せ」を自分の生き方として決めたのは二十代後半の頃でした。あれから何十年? 生活にあって当然の乗り物。乗ることを特別意識するのでは無くても、自分の様々なテレポーションを可能にする。道具としても美しくセクシーですらある。日常生活の中に自然に溶け込んでいる。勿論、レースに夢中になった頃には意識してスキルを高め、自分の肉体を鍛え、集中力を高めたこともありました。

 

小さな旅を自転車でしているのも僕の日常。片道15km圏を走る時も旅心、片道50kmを走るのも旅心、日常のマンネリを打破出来る。また、常に危険と隣り合わせのライド故、見るモノ感じるモノが新鮮、そして感動を覚える。

 

3.AIが浸透する社会について、あなたはどのように思いますか?

 

人工知能の広がりと発展は思う以上に早く動きつつあります。このままAIの機能が向上すれば当然のこと、人の労働意識や安全意識は変わるでしょう。AIによる人の労働時間の短縮や消滅により生じる余剰時間を如何に過ごすかが問われる時代になります。人皆暇時代、安全時代が来るのです。そんな時......

 

2060年、ここにA君26才日本人がいます。日本人No,M-99328-Y-T-J。午前7時、ロボットのモーニングコールで目覚め、自動的にカーテンが開き、その日の気象予報やニュースがA君の網膜に投影されます。ロボットがシャワーか珈琲か聞きます。シャワーを選び、完全自動化のシャワーとボディ乾燥を終えると、A君好みのブレンド珈琲が適温でお気に入りのカップに注がれてドローントレイにより運ばれます。A君は建築家、しかし実際作業するのはA君アシスタントロボ。この日もクライアントに地下美術館のデザインのプレゼンがありますが、先方のロボとA君アシスタントロボによる通信会議が組まれておりA君は報告を受けるだけになっています。さて、陽が高くなった頃、A君は自転車をコールします。転ばないロボバイクです。A君の身体情報、状況、目的地へのあらゆる情報がインプットされています。が...しかし、A君が実際に取り出したのは1990年代のイタリアのロード・レーサー。敢て、AIをこの時間だけ捨てて、アナログバイクに跨がったのです。ライドをして30分後、心拍数があがりつつ適度の緊張感のなかに解放される瞬間を見出したA君は自分の野生を感じ………思わずニヤリとした。

 

人工知能が人の生活を変えても、人はこの様な時間を持つことでしょう。

 

 

 

( インタビュアー 深川雅文 )


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  • 2017.12.08 Friday
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